岩手の競馬前史(4)

南部駒のルーツをさぐる その1

奥州藤原氏が自治と和平を保つため、時の朝廷へ盛んに献上物を送った史実がある。その主たるものが金と馬であったことは、つとに有名だ。 金は言わずもがな。マルコポーロが『黄金の国ジパング(日本)』と表現したのは北東北で産出された金から。当時、朝廷が仏像、寺院を建設する際に、最も手に入れたいものが金だった。 一方、馬は重要な移動手段であり、戦(いくさ)で優位に立つためにも必要不可欠。ローマ、モンゴルが信じられない広さで大帝国を築き上げることができたのは、優秀な馬がいたからこそだった。 もちろん日本でも例外ではなく、当時の戦は馬の有無、それも優秀な馬を確保できたか否かで大きく勝敗が左右され、朝廷は言うに及ばず、各地の豪族たちはこぞって北東北の馬たちを求めた。 延暦7年(787年)には馬の私的交易を禁ずる法令が出され、弘仁6年(815年)以降は軍用馬の持ち出しが禁止されたのは、以上のような背景があったからだった。余談だが、軍用馬の持ち出し禁止に「但し駄馬は禁ずる限りにあらず」の注釈もついていた。 これには笑った。何をもって駄馬と決め、どれを基準に優駿(名馬)と判断するのか。裁定する側が駄馬といえば駄馬だろうし、優駿といえば優駿となる。あまりにもアバウトな法令だったゆえ、裏で多くの優駿が売買されたというが、いずれにせよこの地で多くの優駿を輩出してきたことは間違いない。 しかし元々、日本には馬は存在しなかった。はるか昔、日本列島が陸続きだったときにも、現在の地形となって以降も馬の祖先といわれるエオヒップス、野生の馬、シマウマ、ロバの類は一種類もいなかった。 かつて縄文時代の遺跡といっしょに馬の骨が発見されたが、土壌を攪拌(意図的ではなく)したことによるものという説が有力。家畜、乗用馬として確認できる最古の馬は古墳時代中期(4世紀末)。日本全体に広がったのは6世紀以降だと言われている。 ではどのルートを経て馬がやってきたのか。一般的には中国大陸から朝鮮半島を経て九州へ上陸。そして徐々に東に広がり、ついには北海道を除く日本全土に馬が分布するに至ったというのが定説だった。 確かに対州(たいしゅう=対馬)馬、トカラ馬(鹿児島県)、木曽馬、関東・下総、上総の御料牧場など馬産で知られている国は全国各地に存在したが、北東北の馬は格別大きかったようだ。現在のサラブレッドほどの体高はなかったが、他の在来馬に比べて10センチから20センチも体高が上だったというのだから驚く。 仮に同種内でもっとも大きな馬と大きな馬を掛け合わせたとしても自ずと限界があるし、ただ単に大きければいいという訳でも当然ない。大きくて優秀でなければならなかった。 確信を持って断言する。朝鮮半島から渡来した馬と北東北の馬はまったく別種。忽然と、また突然変異的に優駿が生まれて来たわけではなく、独自のルートでこの地に入ってきたのが南部駒の祖先たちだった。 (第5回へ続く)   テシオ情報局 編集長 松尾康司