Road to 南部杯30th記念コラム~第1回南部杯が行われた頃(番外編)

第1回南部杯が行われた頃(番外編)

 

 前回のこのブログで掲載した第1回南部杯の新聞広告、当時の競馬を知る関係者の方々に妙に懐かしがられました。
 初期のポスター類とかがほとんど残ってないのだそうですね。競馬場の移転とかいろいろありましたし、広告を扱っていた代理店さんなんかも体制が変わってしまったりで、古い資料が散逸しているのだとか。

 という事で、今回は「第1回南部杯が行われた頃」の番外編として、初期の南部杯の新聞広告をもう少しご紹介してみようと思います。

 

■第2回南部杯の新聞広告(1989年10月6日・岩手日報朝刊より)

 1989年は昭和から平成に変わった年です。平成「1年」ではなく「元年」。
 この年の第2回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯は10月8日の日曜日に行われましたので新聞広告は10月6日の金曜日に掲載されています。
 第2回は全面広告!当時の新聞広告なので白黒なのですが、ポスターと同じイメージの縦バージョンですね。
 ポスターと同じ横バージョンの広告もありました。縦と横で若干構成が違うのと縦の方が収まりが良さげな印象もありますから、恐らく縦版の(新聞広告と同様のデザインの)ポスターも存在したのではないでしょうか。

 

■ポスターを再掲

 太陽の中の馬、写真なのか写真から起こしたイラストなのかはポスターの方を見ても判然としませんけども、乗っている騎手は小林俊彦騎手がモデルでしょう。

 ちなみにイベント欄にある「たいらいさお、一城みゆ希と遊ぼう!」、たいらいさおさんは3代目の「うたのおにいさん」(今年引退して“だいすけロス”が話題になった横山だいすけさんは11代目のうたのおにいさんになります)であり、童謡だけでなくアニソンもこなすマルチな方。
 一城みゆ希さんは水沢市出身の声優さん&女優さん。今も現役で活躍されており、声を聞けば「この声の人か」と思い当たる方も多いのではないでしょうか。

 この年の優勝馬はダイコウガルダン(上山)でした。

 

■第3回南部杯の新聞広告(1990年10月5日・岩手日報朝刊より)

 第3回の南部杯も全面広告が出ました。ポスターが残ってないようなのでカラー版のイメージが掴みづらいですが、第1回・第2回とはまた異なる路線のビジュアルになりました。
 キャッチコピーは「その日、歴史が100秒動いた」となりわずかに方向性が変わった印象があるものの、文中には「一千年」「1600米」が残り前年までとの整合性が残されています。

 そしてこの広告の凄いのがですね。この年の第3回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯岩手のグレートホープが勝ったのですが、勝ちタイムが1分40秒0だったんですよ!ぴったり100秒。「3回目にして地元馬V」というレース史上に残る快挙は100秒間の出来事だった。まさしく「100秒で歴史が動いた」んですねえ。

 

■第4回南部杯の新聞広告(1991年10月10日・岩手日報朝刊より)

 この年も全面広告でしたが、掲載日がレース3日前の木曜日になっています。それまでは金曜日掲載。
 ビジュアルが第2回に近いコンセプトに戻っております。ただ、ポスターと全く同じデザインでは無い所が面白いし不思議にも感じる部分ですよね。

 この年の優勝馬はタケデンファイター(新潟)

 また、この1991(平成3)年、当時は“新盛岡競馬場”と呼ばれたOROパークが起工されています。

 

■第5回南部杯の新聞広告(1992年10月8日・岩手日報朝刊より)

 この年のビジュアルはどちらかといえば第1回に近いものになりました。
 キャッチコピーの「一千年の歴史が負担重賞。」。なんかちょっとピンとこない感じがしますねえ。重いような軽いような。

 この1992(平成4)年からあの『馬野家の人々』シリーズの広告展開がスタート。前年の1991(平成3)年にはその前身ともいえる『最近、週末とウマが合っています。』シリーズが展開されておりました。
 字面の重さで攻めるのではなく軽い感じの方に流すのは同じ流れであり当時の流行でもあったので、南部杯のキャッチコピーもそれに沿ったのだろう・・・と想像できます。

 イベントコーナーに見える「松本明子オンステージ」。当時“バラドル”としての地位を築いていた松本明子さんですが、「進め!電波少年」でさらにブレイクするのはこの年あたりから。

 第5回の勝馬はタケデンマンゲツ(栃木)。偶然ながらもこの第5回まで、高崎、上山、岩手、新潟、宇都宮と北日本の各主催者が優勝を分けあう形にもなりました。

■トウケイニセイの日本記録18連勝を伝える記事(1992年10月10日・岩手日報朝刊より)

 第5回南部杯の前日トウケイニセイが日本記録(当時)となる18連勝を達成しました。しかし、連勝はしていてもこの年の春からG1(グループワン・今のA級)に上がった段階ですしこの時点ではまだオープンクラスの大レースにも出走していない。翌年の南部杯をこの馬が制すると思っていた人はそれほど多くなかったのでは。
 そして。トウケイニセイ、これの次のレースとなった11月22日のG1戦ハルサンヒコーに敗れ連勝記録がストップするという大事件が・・・。

 

■第6回南部杯の新聞広告(1993年11月18日・岩手日報朝刊より)

 実はこの年の分について南部杯単体の広告を発見できませんでした。
 というのは、南部杯史上唯一11月に実施されたこの回、11月21日にダービーグランプリが、11月23日に南部杯がという開催日程だったんですね。なのでダービーGPの広告は目立っていましたが南部杯のはその“おまけ”みたいな感じのしかみつからず。
 媒体によってはあったのかもしれないしポスター等も存在したのかもしれませんが、どうも岩手日報紙上では・・・。

 この年はトウケイニセイが優勝しました。岩手日報では「コース新で優勝」とありますが、この時の勝ちタイム1分39秒8はレコードではないはず。

 ちなみにこの1992年には佐々木亜紀騎手がデビューしています。

 

■第7回南部杯の新聞広告(1994年9月23日・岩手日報朝刊より)

 前年度が11月、この年が9月。いずれも南部杯としてはその後行われていない時期の開催
 ビジュアルも雰囲気が変わっており、第1回から第6回まで使われてきた「北日本マイルチャンピオンシップ南部杯」のエンブレムも姿を消しました。翌年からJRA含む全国交流化されるので「北日本」の冠が付いたのはこの年まで。エンブレムは一足早く卒業・・・という事でしょうか。

 この年はトウケイニセイが連覇1分39秒5は正真正銘のレコードでした。

 また、1993年は石川夏子騎手がデビューして岩手競馬史上5人目の女性騎手となった他、水沢競馬場に武豊騎手が初来場、さらには有馬記念を水沢競馬場で場外発売など、JRAとの交流時代の本格的幕開けを思わせる出来事がありました。

 

■第8回南部杯の新聞広告(1995年10月7日・岩手日報朝刊より)

 レース冠名から「北日本」がはずれ、また水沢競馬場での最後の南部杯ともなったこの年は、岩手競馬ファンにとってショックな南部杯ともなりました。
 JRAライブリマウントを迎え撃つのは岩手の「TM」トウケイニセイモリユウプリンスのエース二騎。負けない、少なくとも接戦に持ち込むと岩手のファンが意気込んだこの戦いだったのですが、トウケイニセイは自身初めての3着に終わるという結末。
 自分もこの時、水沢競馬場でレースを見ていました。ですが、ゴールを見届けたあと家までどう帰ったかの記憶が全くありません。それくらいショックな事なのでした。

 当日の岩手日報紙面ではトウケイニセイに◎モリユウプリンスに○ライブリマウントは▲の印。ですが専門紙ではライブリマウントとトウケイニセイが◎を分けあう形でしたから、岩手日報の予想はちょっと「岩手寄り」に盛った感じかも。

 広告のビジュアルはその後の、GI化以降も使われていくものにだいぶ近づいたように見えますね。

 「ついにかなう」のキャッチコピーは、この年の南部杯の結果からみるとやや皮肉な感じになってしまいますが、それはともかくとして地方競馬とJRAの壁が無くなり地方の強豪とJRAの強豪が互いの舞台で戦う事ができるようになるのは競馬ファン共通の夢。まさについにかなった願いだったのです。


 南部杯はこの翌年、1996年からOROパーク盛岡競馬場に移動します。
 水沢は伊達藩の領地であって南部藩では無かったことから伊達藩の領内で“南部”を冠するのは?という声は南部杯設立当初からあり、また水沢競馬場のマイルコース近年以上に内枠有利・外枠不利で、例えば水沢での南部杯において8枠から連絡みしたのは最後のヨシノキング一頭だけ。そういうクセが強いコースで交流戦を行うのはどうなのか?という意見もあったのですが、ただ旧盛岡競馬場がフルゲート8頭までしかとれないコースで多頭数必至の交流競走は実施できなかったために一種の“ねじれ”のような状況が続いておりました。
 新盛岡競馬場への移動は、本来の南部の地に帰るという意味と、そして枠順による有利不利がほとんど無いコースでの開催が出来るという点で歓迎されたのです。

 前編後編も合わせてお読みください。

投稿者 よこてん/横川典視


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