Road to 南部杯30th記念コラム~第1回南部杯が行われた頃(後編)

第1回南部杯が行われた頃(後編)

 

★わりとおとなしめだった第1回南部杯の広告
 さあ、1988年10月9日がやって来ました。『第1回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯』
 それはそれは派手に宣伝されていたのでは・・・と思っていたのですが、当時の新聞を見ると意外にそれほどでもなかった。

■南部杯告知の新聞広告(1988年10月7日・岩手日報朝刊より)

 新聞広告は1/2面を使っていますが、他の重賞競走の告知の際も同じスペースで広告を出していたようですから、南部杯だから特に大きい・・・というわけではありません。
 ただ、「北日本マイルチャンピオンシップ南部杯」のエンブレムや「1マイル」「1,600米」と、マイル・交流という特徴的な設定を強く印象づけようとするイメージなのは見てとれますね。

 この広告を見て気付く事がいくつかあります。

 まず左上に置かれている「北日本マイルチャンピオンシップ南部杯」のエンブレム。ダービーグランプリにも専用のエンブレムマークがあるように、南部杯にも当初は独自のエンブレムが作られていたのですね。近年は使われていないので逆に目新しく感じるかも。

■第2回、第4回の南部杯のポスターにもこのエンブレムがあります(「岩手競馬30周年記念誌」より)

 

★実はあのキャラも南部杯と同い年
 そして。“あれ”が見あたらないのに気が付きましたか?そうですよあのキャラですよ。はやてかける
 岩手競馬の広告類やグッズに必ずと言って良いほど登場するはやて・かけるのキャラクターが、この時の南部杯の広告にはいないのです。

 話がわき道に逸れますが触れておかないと余計に分からないので書き進めますと、故・手塚治虫氏がデザインしたあのイメージキャラクター達は、彼らも南部杯と同じく、1988年の岩手県競馬組合創立25周年を記念して制作されたものなのでした。つまり実は南部杯と“同い年”なんですね。
 そして、キャラクター達が制作された当初は「メインキャラクター」「サブキャラクター」となっていて、これまた実は、名前が付いていなかった!のですよ。
 翌1989年、平成元年になってシンボルキャラクターとして本格展開する事になり、それに合わせてキャラクターの名前を公募「はやて」「かける」の名はその時に決まったものなのでありました。

 のちに「はやて」「かける」となる彼らは、1988年の岩手競馬の広告類に時々登場していたりします。
 たとえば、第1回の南部杯と同じ年に行われた第3回ダービーグランプリのポスターには「はやて」のロゴマークが入っていますし、南部杯の翌週に行われた不来方賞の新聞広告にもはやてが登場しています。

■キャラクターが登場している不来方賞告知の新聞広告(1988年10月14日・岩手日報朝刊より)

 南部杯に関しては広告展開の中で敢えて手塚キャラを使わなかった可能性もあるので正確な所はもう少し調べたい所ではありますが、第1回南部杯の頃は「はやて」「かける」が登場する過渡期だった事は間違いないと思います。

 しかし当時の新聞を見ていると、自動車の広告が非常に多いなと思わされますね。自動車の全面広告がひとつの朝刊の中に3面4面と入っている事が珍しくない。あとスキー用具の広告が1/2面を使って入っていたりする(主に見ていたのが10~12月の新聞だからでしょうけども)。時はいわゆる“バブル景気”の頃ですから新聞紙面の雰囲気も今とはずいぶん違います。

 

★いよいよその時がやって来た

■南部杯当日のスポーツ面、岩手競馬予想(1988年10月9日・岩手日報朝刊より)

 予想欄はさらっとしてますね。お、岩手日報は岩手のトウケイフリートに◎だったのか。対抗は新潟のイチコウハヤタケ。実際に勝ったグレートサーペンは△評価ですな。
 トウケイフリートは1988年のシアンモア記念みちのく大賞典に加え東北サラブレッド大賞典を、南部杯のあとには北上川大賞典桐花賞を制する事になるその年の岩手の最強馬。トウケイニセイの半兄でもあります。
 イチコウハヤタケは新潟・三条の重賞を総なめにしてきた強豪でしたが、1988年はキャリア末期にさしかかってきていた時期だったようです。
 グレートサーペンは高崎で重賞級のレースを勝ちながら力をつけてきていた売り出し中の馬。南部杯が自身初の遠征競馬でした。

 遠征馬にもう少し触れておきましょう。

 宇都宮のトップビクトリーはその年の春に高崎の重賞級のレースを3連勝していた実績馬。残念な事に南部杯の前後何戦かの間は調子を落とした時期だった模様。青森産馬であり母系はフロリースカップ、小岩井牝馬から出ている血統。

 上山のカシワクラフトはJRAから上山に移籍していた馬。上山では大レースを勝てずに終わりましたが、ロングミラクル・ロングリユウの“ロング軍団”が上山の主だった重賞を勝ちまくっていた時期にその2頭を破った事があったのですから決して力が無い馬ではなかったはず。
 このカシワクラフトも母系は小岩井牝馬のプロポンチスで、シアンモアやダイオライトの血も入っているバリバリの小岩井系

 新潟のもう一頭・グレートコマンダーは1988年の4月から9月まで9戦8勝2着1回という成績を挙げて乗り込んできました。南部杯では2番人気2着、そして南部杯以降も重賞を勝ちまくりますので、まさに勢いに乗っていた時期の遠征だったのでは。

 ちなみに当日の南部杯や平場レースに騎乗している「渡辺」は地元の渡邉正彦騎手ではなく新潟の渡辺正治騎手です。
 この日の渡邉正彦騎手西康志騎手と共に、上山で行われていた『東北アラブ3歳チャンピオン』に遠征しており、水沢では騎乗していません。

(※この辺に出てくる騎手の方の「元」は省略させていただきました)

■第1回南部杯の結果(1988年10月10日・岩手日報朝刊より)

 南部杯は9日第9レースですので(9)の所をみましょう。1着グレートサーペン、タイム1分42秒4、単勝配当840円、複勝は160円・150円・280円、枠連複970円という事が分かります。
 勝ったグレートサーペンは3番人気、2着グレートコマンダーは2番人気。1番人気トウケイフリートは4着に終わり替わって3着に食い込んだホワイトシローは6番人気でした。人気サイドの決着ではありますが枠複時代とすれば“すんなりとは決まらなかった”印象だったのでは。
 ところで「きょうのレース」第8Rの中には翌年にはトウケイフリートと激闘を繰りひろげながら重賞2勝を挙げるまでになるエンゼルトーンの名が。この頃は下位クラスからのし上がってきている真っ最中。

■第1回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯当日の模様(「岩手競馬30周年記念誌」より)

 1日の売上げは3億9078万円。上の予想の面にチラリと見えている前日の売上げが2億6853万円なのですから、南部杯だからといってもの凄く増えたわけでは無いようです。
 といっても当時の、ネット発売はおろか相互場外発売も限定されていた頃に1億円以上増やしたのは十分なインパクトがあったといえるでしょう。

 私が実際に知っているのはもう少し後の時期からなのですが、かつての場外発売は、それ専用の発売窓口の横に張り出された発走の2時間も3時間も前のオッズを見ながら、これまた発走の30~40分くらい前に締め切られるのに間に合うように買い、現地のレースが終わってしばらく経ってから張り出される成績のFAXでようやく結果が分かる、という本当に手探りのような、目隠しをして買うようなものでしたね。
 「地方競馬は遅れていたんですね」などと言うなかれ!その頃はJRAだって、東日本地区と西日本地区で相互に発売していたのはGIと一部の重賞のみ。メイン場の実況の合間に一瞬流れる別エリアの中継を見逃してしまうと、ヘタをしたら翌日のスポーツ紙を買うまで結果が分からないなんてことも。JRAも地方競馬もそんな時代だったのです。

 

★強い馬つくろう 岩手の名にかけて
 しかし、その時点で間違いなく岩手のナンバーワンホースといえたトウケイフリートが、こう言うと失礼かもしれませんが必ずしも現地のNo.1ではない馬たちに敗れたというショック。売上げの多寡よりもこちらの方が岩手の関係者には遙かに大きなインパクトを与えたのではないでしょうか。

 2年早くスタートしていたダービーグランプリ第1回トミアルコ第2回スタードール大井の牝馬が勝ち、1988年の第3回もまた大井のアエロプラーヌが制する事になります。南部杯も第1回のグレートサーペン第2回のダイコウガルダンと遠征馬が勝ちました。
 “地元のトップクラスの馬が他地区のそこそこのクラスの馬にやられる”パターンが続いた事で「やっぱり他の地区の馬は強いのか」という苦手意識と同時に「なんとしても勝ちたい」という意識もまた沸き上がってくる事になります。
 それが第3回の南部杯、第4回のダービーグランプリ、ようやく地元馬が一矢を報いた戦いへ、そして後のトウケイニセイメイセイオペラへと繋がっていくわけです。
 珍しいマイルという距離の交流戦、1着賞金2000万円。そんなレースを岩手で行う。その冒険は手痛い敗戦から始まりはしましたが、だからこそ他に替えがたいレースとしての位置付けを確立できたのかもしれませんね。

投稿者 よこてん/横川典視


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