Road to 南部杯30th記念コラム~第1回南部杯が行われた頃(前編)

第1回南部杯が行われた頃(前編)

 

 今年30回目を迎える『マイルチャンピオンシップ南部杯』。30年前といえば1988年、そう、昭和63年。いまや「昭和って?」というファンの方も少なくないと感じますが、今回は2回に分けて第1回南部杯が行われた時代をいろいろと振り返ってみたいと思います。

 

★第1回マイルチャンピオンシップ南部杯創設の年。その1988年とは?

 1988年・昭和63年にはどんな出来事があったかというと。
 まずスポーツでは2月にカナダ・カルガリーで冬季オリンピック大会が、9月には韓国・ソウルで夏季オリンピック大会が開かれました。今は夏・冬の大会が2年おきに設定されていますがそれは1994年、カルガリーの次の次のリレハンメル(ノルウェー)冬季大会からの事。1992年までは夏・冬の大会が同じ年に行われていました。

 日本国内はバブル景気終盤の頃。3月には青函トンネル、4月には瀬戸大橋が開通したり、東京ドームが3月に完成したりと大規模な事業が次々と完成しています。
 岩手県ではというと東北自動車道が青森まで繋がったのが1986年、八戸自動車道が安代ジャンクションで接続し八戸まで高速道路が繋がったのが1989年の事。このように日本中がどんどんと姿を変えていた時期なのでありました。

 世界情勢も大きく変わった年です。旧ソ連ではペレストロイカと呼ばれた変革が始まり、それをきっかけに東側諸国の民主化運動が活発化。翌1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦構造終結へと続いていく流れが生まれています。

 日本の話に戻ればこの1988年夏、昭和天皇が体調を崩され、後にいう自粛ムードが拡がりました。イベントやお祭りが中止になったり派手なネオン広告やCMが停止されたり。
 昭和天皇は翌1989年1月7日に崩御。『昭和64年』は1月7日までとされ、1月8日からは平成元年に。結果、1988年、昭和63年は事実上の『昭和』最後の1年となりました。

 今の20代くらいの方には「昭和」とか「ソ連」とか「冷戦」「東側諸国」とかいうワード自体が歴史上の、年表上の存在でしかないかもしれません。そういうふうに変わっていった端緒の年が1988年だったのです。いろいろなものが大きく変わった、歴史の区切りになる年だったように感じますね。

 競馬の世界はどうでしょうか。JRAでは武豊時代が始まりつつありました。1987年にデビューした武豊騎手は1988年の菊花賞をスーパークリークで制してGI初制覇。それだけに留まらずこの年の関西リーディングになっています。2年目の新人騎手が!
 岩手では、前年の1987年に村上昌幸騎手が引退、調教師に転身し、替わって佐藤浩一騎手がリーディングに立ちます。
 佐藤浩一騎手は1988年から3年連続で騎手リーディングを獲得し岩手のトップジョッキーの座に就きます。しかしその後ろで、3年連続で2位だったのが菅原勲騎手。菅原勲騎手が初めてシーズン100勝を突破したのも1988年でしたから、この年がその後長く続く勲時代の始まりと言っていいかもしれません。
 そうそう。山本聡哉騎手が生まれたのは1988年1月ですね。山本聡哉騎手は“南部杯と同じ年齢”なのですな。

 JRAの年間発売額が初めて2兆円を超えたのは1988年の事。1990年には約2兆5千億円、1991年には約3兆円ともの凄い勢いで伸びていたこの時期は第二次競馬ブームといわれます。
 地方競馬もJRAほどではないにせよ売上げが伸びており、この時期は地方競馬全体で1兆円を目前に。岩手競馬も年間690億円ほどの売上げがありました。
 各地の地方競馬場で高額賞金の重賞が設定されたり、既存の重賞競走の1着賞金額が毎年増額されたり・・・というのもやはりこの時期からでした。

 

★1着賞金2000万円。画期的な条件、破格の賞金額
 マイルチャンピオンシップ南部杯、正確に言えば当時は『北日本マイルチャンピオンシップ 南部杯』というタイトルだったこのレースは、岩手県競馬組合設立25周年を記念して創設されました。
 2年前の1986年に創設された『ダービーグランプリ』に並ぶ1着賞金2000万円、当時としては珍しい1600mの距離の交流戦(ただし“北日本”の冠から分かるとおり当初は東日本エリア限定の地方競馬の交流競走)。いずれも当時としては他に無い条件なのでした。

 例えば当時の岩手競馬の重賞競走では、みちのく大賞典シアンモア記念桐花賞といったビッグレースでも1着賞金は1000万円
 そのほかの地方競馬でも、各競馬場の重賞には1000万円~1200万円ほどの1着賞金のレースがあったりしました。ですがそのほとんどはその競馬場のトップクラスの馬たちがすべて集結するようなグランプリ的な戦いに懸けられたもの。マイルという限定的な条件で、それも交流戦、必ずしも自場の馬が勝てるとは限らないようなレースにこんな高額の賞金を設定したのはまさしく常識破り、破格と言っていいものでした。

 南関東は地方競馬の中でも抜きん出て賞金が高額なのはご存じの通り。とはいうものの帝王賞は1988年に、前年の1着賞金2800万円から3400万円に増額されたばかり。東京大賞典も同様に3400万円から4000万円に増額されたばかりでした。いずれも当時から南関東はおろか、全国各地の競馬場から南関東に移籍してでも狙いたいくらいのビッグタイトルでしたが、それでもそれくらいの1着賞金だった頃なわけです。
 それを見てもやはり、岩手という北の競馬場に1着賞金2000万円のレースを立ち上げたのは、非常に画期的であり同時に冒険的な事だったと言えるでしょう。

★マイル/1600mという距離の意味
 南部杯がその戦いの舞台として選んだ「1600m」という距離も当時としては冒険的でした。
 JRAでは、45年間にわたって芝3200mで行われてきた秋の天皇賞が芝2000mに短縮されたのが1984年。秋のベストマイラー決定戦となるマイルチャンピオンシップが創設されたのも同じ1984年のこと。マイルや短距離への指向が徐々に強くなってきた時期でした(フェブラリーステークスの前身・フェブラリーハンデキャップが東京ダートマイルのGIIIとしてスタートしたのも1984年)。
 しかし地方競馬ではまだまだ長距離指向が強く、岩手では主立った重賞はみな2000m以上でしたし先に挙げた大井の東京大賞典は3000m、帝王賞も2800mから2000mに短縮されたばかり。お隣・上山競馬のグランプリ『樹氷賞』は2300m、県営新潟競馬の『新潟グランプリ』は2280m。後にダート1400mのグレードレースになった笠松の『全日本サラブレッドカップ』も1988年の設立当初は2500mという長距離戦だったりします。
 そういえばJRA札幌競馬場で行われる『札幌記念』も1988年まではダート2000mのレースでしたね。
 こうしてみると今のファンの方には“地方競馬はステイヤーばかりだったのか?”と思われそうですね。実際、地方競馬には当時のJRA以上に中長距離型の血統が多かったのは確かでしょう。アラブの競馬なども長距離指向が強かったですから余計にそうだったかも。一方で同時に「強い馬は長い距離で底力を競いあってこそ」という意識がJRA・地方競馬を問わずまだまだ根強かったのも確かでした。
 そんな時代に1600mを選んだ発想は時代を先取りしていたと言うべきでしょう。南部杯というレースが独自の地位を築くことができたのもマイルという距離を選んだからこそ・・・と言っても過言ではないのではないでしょうか。

(写真/第1回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯の模様 「岩手競馬30周年記念誌」より)

 後編では第1回南部杯の前後のことを採り上げていきます。

投稿者 よこてん/横川典視


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